稲荷堂に至るまで仕事の関係もありましたが数々の宗教に所属してきました。キリスト教もプロテスタントやロシア正教会、仏教系のカルト教団も友人がたくさん、インド哲学を表面に掲げ社会的に非難をされた団体にも友人はたくさんありました、その他のたくさんのキリスト教に私は所属したこともあり、神社神道系の新興宗教にも数多く籍を置いたことがありました。その中で不思議なことに今まで興味を持ったことが1つあります。黒のマリア信仰です。逆に言えば既存のキリスト教では救われるなかった人々が民族が生きた証でもありました。それはフランスの南部の遊牧民族であり、ナチスドイツの時に強制的に去勢をさせられた民族でもありました。またカトリックの国の中で救われない極貧国であったフィリピンのミンダナオ方面に広まった黒のマリアの信仰でありました。イエスキリストが生まれた時に母なるマリアはもう1人存在して黒色のイエス・キリストを出産したと言うのです。そして私はミンダナオに黒のマリアを求めて行ったことがありました。教会の前には日本人やロシア人やアメリカ人の捨てられた子供が山のようにいました。私はすぐに財布が空っぽになりました。そして目の前にある教会の無力を知れました。その人たちのために黒いマリアは存在して黒いキリスト存在しました。
貧しく神様を求めている人には神様は手を伸ばさないのでしょうか?私はかなり衝撃を受けました。それと同時にお金をくださいと叫ぶ子供たちはキリスト教会の中には1歩も入りません。彼らはそのような境遇の中でも神を信じているのです。自らの日本人はどうでしょうか?生活の中に神を感じることがあるでしょうか?本日の新嘗祭は1日の食事のために物乞いをする子供たちに何ができたでしょうか?祈ることすら忘れた日本人に何ができたでしょうか?
私たちは彼らを見習わなければいけません。彼らは神と共にいる姿を見なければいけません。そして偽りのだましの神から脱却する必要がありますね。新嘗祭は収穫に感謝するお祭りです。そして神の恵みに感謝しながら同じ御霊である神の子を助ける神のみわざが現れないのは大変残念なことです。大東亜共栄圏八紘一宇と言う考え方は共に栄えるともに同等の利益を得る民族を増やすことではなかったのでしょうか私は大変残念に思います。と同時に神の光を広げるのはこれからでもできるのです。